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ノストラダムスの大予言が見事に外れ、二十世紀最後の年となった平成十二年が、暮れに近づいた頃だった。ワンルームマンションの一室で、彼の遺体が発見されたのは。
 
二週間近くもの無断欠勤を訝んだ、彼と親交の深いホストが、マンションの管理人に懇願して、ようやくに彼の部屋の鍵を開けて貰い、死後十日以上も経過して、変わり果てた彼の姿を発見したのだった。
 
変死体として扱われ、司法解剖となったが、結局のところ、自殺か病死かは不明であった。
 
そのホストは、インベーダーゲームのミサイル音が歌舞伎町を席巻していた頃、私が新人ホストとして最初に籍を置いた店、コマ劇場裏のラムールで、常に売上げ上位に付けており、ナンバーワンの常連でもあった。

彼、桐生の存在を、私が初めて意識させられたのは、当時その店で、余りの喧嘩っ早さから、周囲に一目も二目も置かれていた、磯崎というホストとの揉め事に直面したときであった。
 
磯崎は薬物の常用者との噂もあり、常に焦点の定まらない目付きと、異常なまでの姿勢のよさで、身軽なダンスステップを踏みこなして、どこまでも危険な匂いを漂わすことで、多くのお客を魅了しているホストだった。
 
平生は人懐っこい雰囲気を持っていた磯崎だったが、いちど機嫌を損ねると、直ぐさま相手のホストにチョウパン(頭突き)をかましたり、蹴りを繰り出すといったことが時々見受けられた。
 
それに比べて桐生は、どこかおっとりした雰囲気を持っており、磯崎の弟分といった立ち位置で仕事をこなしているように見えた。
 
磯崎は桐生の名前を常に呼び捨てにしていたが、桐生は磯崎の下の名前を、ちゃん付けで呼んでいることが、この二人の力関係を現しているようにも思えた。
 
その夜、はっきりとした原因は今もって分からぬが、指名客のことで怒りを露わにした磯崎が、桐生を罵倒した。それでも、どこまでも低姿勢な桐生は、磯崎の機嫌を取ろうとしていた。
 
いつもの磯崎ならば、とっくに手や足が出ている場面であったが、なぜかその時は手を出さずにいるのを見て、どこかしら不思議に思っている私であった。ボトルケースの前で桐生を怒鳴り散らした末に、磯崎はそこに保管されているウィスキーボトルを二本掴むと、それを両手に構えて、桐生に襲い掛かろうとした瞬間であった。
 
その時まで低姿勢で磯崎の機嫌を取る為に、四苦八苦していた筈の桐生が、目にも止まらぬ素早さでジャケットを脱ぎ捨てると同時に、ネクタイを外して、怒りの形相を露骨に現している磯崎を睨み据えて、激しく威嚇した。
 
周りで見ていた、私を含める野次馬ホストたちも、その余りの迫力に何もできずに、どんな決着を迎えるのかと、手に汗を握っていた。
 
ところがである、初めて自分に刃向かってきた桐生の勢いに気圧されたのか、両手に握り締めていたウィスキーボトルから指を離して、そのまま絨毯の上に落とした磯崎は、真後ろに身体の向きを変えて、何事も無かったかのように、自分の指名席へと戻っていった。

愛用のアメ車を疾駆させ、平然と高速道路で時速二百キロオーバーの暴走をして、その車に同乗したホストたちが口を揃えるように、彼の車には二度と乗りたくないと言わせてきた、命知らずが売りの磯崎が、周囲の目すら気にならないほどに怯えていることが、誰の目にも明らかであった。
 
桐生が以前勤めていた店、ジェネラルでは“嵐”という別称で呼ばれ、周りのホストに恐れられていた空手の有段者であることを、その数日後に先輩ホストに教えられて、今更ながら、人は見かけによらぬものと納得させられる私であった。

ラムールを半年ほどで辞めた私は、Iビル地下のジェントル で一年ほど過ごしたが、連日の不摂生から体調を崩して横浜の実家に戻り、数年間のニート生活を過ごした。
 
二年ほど齧った親の脛だったが、心身ともに健康を取り戻して、正業に就こうと仕事を探すも、結局は懲りもせず、再びのホスト稼業に身を費やすことになった。
 
伊勢佐木長者町のナイトプリンスを手始めに、福富町のアマルフィへと移り、気が付けば、殆んどの喫茶店がポーカーゲーム屋に姿を変えた、古巣の歌舞伎町に舞い戻っていた。



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